生まれも育ちも大分で、結婚した主人も同じ大分の人。
大分県から一歩も県外に出ないまま、この歳になりました。
子どもが独立して県外で生活するようになってから、自然と、私たち夫婦の先の生活を考える時間が増えていきました。
夫婦で話すとどうしても「自分たちが死んだあとは…」と2人単位で話が進みます。
でも、私はそこにずっと、何か違和感がありました。「死んだ後の自分らしさ」に結論がでたとき、その違和感が解消された気がします。今はとっても晴れやかな気分です。
「主人の家のお墓」と私の関係
結婚してからというもの、「お嫁さん」と、近所の方に呼ばれてきました。
若いうちはそれがうれしかったですし、「家族になるってこういうことだ」とも思っていました。
ただ、私にも生まれ育った家があって、血のつながった両親がいて…。嫁いだ身の方なら、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。自分が育てられた家族と、自分が作っていく家族のこと。
私の家にも祖父母が眠るお墓があります。そして、「結婚して、嫁いだのだからあなたはうちの墓に入るのが当然だ」という空気が、主人にも、義父母にもあります。
主人の家墓には、明治時代を生きた先祖の名が刻まれているほど、何代もの遺骨が入っています。「私もその遺骨の1つになるんだろうか」と思った時、不謹慎だと思われるかもしれませんが、イヤだったんです。
「どうせ死んだ後ならば、主人の家墓ではなくて自分の血のつながった先祖と一緒の方がいい。」
家族をどのように考えるかによって、答えは変わるのかもしれません。ただ、小さい頃から仏壇に手を合わせて法要をして来た自分の祖先の方が、私にはしっくりときていました。
今でも、主人の家系で法要がある時、知らない住職さんがきてお経をあげる間の私には「よそもの感」があります。
檀家にも入っていませんし、これまで檀家に入れと言われたこともありません。
檀家とお墓と子どものことを考えて
主人は「ずっと継がれた墓はいずれ自分たちが守るんだろうな。でも正直、山の上にあるし手入れは大変だし、どうしたもんかな」といいます。
自分たちがそこに入るのが当たり前、と考えてのことでしょうね。
でも、これはまたさらに不謹慎なことかもしれませんが、私の子どもたちに、主人の家墓を任せたくないのです。
「嫁が口を出すことじゃない!」と義父母から怒られそうですが、主人の家墓を改葬か墓じまいしたいとすら考えています。
たまに手入れをして、法要の時にだけそれらしいことをして…何だか先祖の方々が可哀そうな気がしてならないのです。
それに、檀家に入るだとか、会ったこともないようなお坊さんに窮地の時だけ連絡をしてお布施を準備して、など、子どもたちにその責務を負わせるのが心苦しいのです。
私たち夫婦が建てた家には仏壇を置いていません。私は主人の家の寺檀家に入っていませんし、私が幼少のころに別の寺の檀家に入っているからです。
正直これまで、この話題を出すことも、腫ものに触るように、家族全員が避けてきました。でも、現実的に主人の両親はもういい歳ですし、私たちもいつどうなるか分かりません。
遺骨を残さない方法を選びたい
ある日、ふとテレビを見ていて「散骨」という言葉を聞きました。遺骨を細かく砕いて山や海にまいて自然に還す葬儀サービスを特集した番組だったと思います。
直感で「いいな」と思いました。
最近は、合葬墓やら樹木葬やら、墓石じゃない形のお墓もたくさんあるんですね。
調べてみたら、近所の山の一角に永代供養を行う寺と自然葬墓地があるとわかりました。
宗派も問わない、誰でもいつでもお参りできるお墓。ステキじゃないですか。
散骨してきれいさっぱり跡形もなくなってしまうと、子どもたちにとって拠り所がないような気もするので、私としてはシンボルか石碑があるところが良いですね。
法要とか、何回忌とか、いっそのことまったく縛りもなくて「お参りしたい時にする」くらいで充分だと思います。
亡き人にとらわれず、子供達には前をむいて、今を一生懸命に生きてほしいと思っているので、こっそり、エンディングノートを準備して、永代供養費をヘソクリしています。
夫婦だ、家族だといっても、あの世へは1人で旅立つのです。
私が自然のどこかを漂って、現世にいる家族は、生きている間、思い出した時にいつでも触れあえる。そんな後世がいいです。
大分の永代供養自然葬